1 イエスが語った「盛大な宴会」は、神の国に譬えて語られた言葉です。質素な食生活を送っ
ていた当時の人々にとって「宴会」は、その言葉自体がとても大きな喜びを想起させるもの
でした。宴会の主人とは、真の神です。真の神は、大きな喜びの待つ祝宴に全ての人を招
いているのです。
2 ところが最初に招待された人々は、何かと理由をつけてその招待を断りました。財産、仕
事、結婚と理由は様々でしたが、そこに共通していたのは結局彼らが自分の事ばかり考え
ていたという点です。この人々は第一義的には先に神の招きを受けたユダヤ人を指します
が、神の招きを受けつつも自分の都合、希望、願いばかりを優先させてしまうという点に
おいてはあなたも無関係とは言えないのではないでしょうか。信仰における優先順位を
「私」でなく、「神」にしていますか。生活、信仰のあり方において自分を脇に置き、神を中
心に据え直すべき点はありませんか。
3 怒った主人はしもべに命じて町中の貧しい人、身体の不自由な人を片端から宴会に招き入
れました。なぜ、そこまでするのでしょう。ここには真の神の熱情が表されています。裏
切られても拒絶されてもなお人の救いを取りやめにせず、神の国の祝宴即ち神と人が共に
生きる喜びを実現したいと神は願っておられるのです。それはお返しなどできない者に与
えられる、恵みの招きです。御子の十字架による救いという大きな恵みを与えられたあな
たも、その招きを受けた一人なのです。
4 この大きな愛から何を学びますか。①恵みの招きを受けた者としてどう生きるか⇒どんな
人も十字架に表された神の大きな愛に釣り合う愛など持ち合わせていません。ならばせめ
て救われた我が身の全てをもって神の愛を素直に受け止め、心からの感謝をささげましょ
う。②恵みの招きはまだ継続中である⇒「まだ席はあります」と聖書は告げています。神の
愛と恵みには限界がなく、御国の席はまだ空いています。一人として滅びる事を望まない
神の御心を我が心として、まだこの恵みを受けていない人々に福音を伝え、キリストを証
し、招待しましょう。