十字架 マルコ15:33〜41 小泉 智 師

見捨てられ不安は現代の病気です。いつか相手に見捨てられてしまう。この恐れから過剰な努力を相手にするのです。だからこそ思うのです。主だけはいつでも堂々としていて欲しいと。しかし十字架の上の主は嘆きます。神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか。およそ救い主とは思えない。この告白を聞いてこの方が神だと誰が信じるというのでしょう。むしろつまずきにもなりかねません。こんな泣き言をいう奴が神であるわけがないと。

 

実際、神は神の子を見捨てたのです。罪なき者を断罪したと言ってもいい。全地が暗くなるのも神の審判が下った旧約的表現です。神が神の子を見捨てた十字架を前にひとつだけわかることがあります。神が私たちを見捨てることはあり得ないのだと。どんな罪びとも。どんな失敗を犯した者も。さすがの愛の神もわたしに愛想を尽かして見限るだろうなどと言ってはいけない。絶対に見捨てません。神の子がわたしに代わって見捨てられた以上。

 

この十字架を見つめる時、生まれてくるのは信仰です。救いに遠い位置にいたはずの百卒長でさえ、信仰告白を生み出させるほどの力が十字架にはあります。十字架で十分なのです。預言者エリヤを呼んで現れなければ救い主とは言えないというものでもない。十字架の証しこそこの方が救い主であることを何よりも物語ります。神と人を隔てた神殿の幕は裂け、神は近づいてこられます。私たちの肉体と心の中にまで。信仰を生み出そうとして。

 

私たちにしても救いから遠い存在だったはずです。聖書を読んだこともなく、教会とは無関係に生きてきました。クリスチャン家庭も例外ではない。キリスト教文化に生きていただけであって、身近な分、かえって十字架から遠いこともないわけではないからです。そういう者が信仰告白できることを当たり前と思ってはいけません。聖霊が十字架の主をはっきりと映し出して下さった。わたしの内面にまで主が入り込んできて下さったからなのです。

 

不思議なことに主の臨在に包まれた瞬間、たとえ教会にはじめて足を踏み入れた人でさえ、祈りや賛美の中で瞬時に信仰告白に導かれることがあります。難しいことはわからない。けれどもイエス様が神様であることだけははっきりと確信が持てましたという証しならいくらでも聞くではありませんか。主の十字架はそれほどまでに強烈な吸引力があります。十字架の歴史的事実を聖霊がリアルに心の中にまで引きずり込んで下さるからでしょう。

 

この主の十字架を遠くで目撃していたのは女性たちです。男性の弟子たちは逃げてしまったのでしょう。目撃証言は大切です。ところが当時女性は証言者として資格がないとみなされていました。しかし主は社会から資格がないと軽んじられる者をあえてお用いになることがあります。女性に限りませんが、教会史上も主は無名の者の祈りも、周縁にいる者の奉仕さえも、アウトサイダーの証しをも用いてみわざを進めてこられたではありませんか。

 

私たちは尻込みしがちです。自分などは資格がない。能力がない。品性にかける。主よ、わたしではなくもっと別の有能な人を、と言いたくなる場面もあるでしょう。救われただけで満足し、主に用いられることに関してはためらってしまうのです。いいえ、誰が認めずとも関係ない。主はあなたを用いたいのです。十字架の恵みを頂いた者なら誰でも有資格者です。聖霊が強く迫る時、その励ましに押し出され福音を語らずにはおれないのですから。

 

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