明石聖会Ⅰ 御霊によって生まれる ヨハネの福音書 3:1〜16    大坂太郎師

 

あれは今から11年前、神戸で開催された所属学会の全国研究会議でのことだった。いかにも牧師然とした参加者の一団に、一人だけ異彩を放つ人が。その姿はなんとあの「寅さん」のコスプレである。しかもこの「寅さん」が活発に質問するのだ。正直面くらった。そして基調講演の最後、その年から部会理事の末席に連ねられた私は終祷者に指名され、祈った。閉会後すぐ、なんとあの「寅さん」がこちらに向かってくる。「君はペンテコステだろ。祈りで分かったよ(もちろん異言で祈ったわけではない!)」これが日本の福音派をリードした異能の新約学者、故宮村武夫先生との出会いであった。

 

閑話休題。明石聖会のポスターを見ていた時に宮村先生が生前語り続けていた言葉を思い出した。「徹底した聖書信仰、徹底した聖霊信仰」である。今回の聖会では「御霊によって生きる」というテーマが掲げられているが、今朝は特に御霊による生の最初にある体験、すなわち御霊によって生まれることについて四つのことを学びたい。

 

一、全く新しい体験

 

この個所はイエスとパリサイ人ニコデモの対話である。私たちはよく「パリサイ人」と聞くと「ああ、あのイエス様に嫉妬し、反対し、陥れようとしていた人たちね」と思いやすいのだが、ニコデモはそのようなパリサイ人ではなかった。むしろ彼は自らよりもずっと年下の青年イエスを「先生」と呼び、イエスの姿の背後にある神の臨在を認めていたそれなりの人物であった。そのニコデモに対し、イエスは言う。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(三節)」と。ここで注目したいのは「新しく」と訳されていることばである。これは翻訳が難しいことばであり、「もう一度」とも「上から」とも訳せる。だからニコデモが「母の胎に、、、」といったのは理解できないことではない。だが、イエスの意図は単なる「やり直し」「生まれなおし」を超えたもの、即ち上から生まれるということであった。上とは神によるという意味である。つまり御霊によって生まれるとは、今生の生を超えた圧倒的な霊的体験であり、この体験により、キリスト者はこの世にありつつなおこの世を超えたいのちをもって生まれるのである。

 

二、聖霊のいのちに触れる体験

 

ニコデモの悟りの無さを知ったイエスはおそらくは厳粛な面持ちで「新しく生まれる」を「水と御霊によって生まれる」ということばで説明しなおした。しかしこの「水」と「御霊」はどういう意味なのだろうか。ある学者たちは「水」をキリスト教の洗礼を指すと考えたり、他方で「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」の二つのバプテスマを考える人もいる。しかしながら、イエスが対話をしているのがあくまでもニコデモであると考えると、そうした読みは少し難しいように思う。むしろこの「水」は「御霊」の比喩的表現と考えた方がよい。こうした理解は旧約聖書、特にエゼキエル書三六章や四七章には顕著であるから、おそらくイエスはこう説明しニコデモにこのことに関する理解を促そうとしていると考えらえる。このように御霊によって生まれるとは、聖霊のいのちに触れる体験であり、単なる儀式を超えたものであることがわかる。

 

三、見えないが、確かな体験

 

七、八節においてイエスは聖霊の働きを風になぞらえ、御霊による誕生についてもう一つのことを教えている。この意味はさほど難しいものではない。風は目には見えないが、それが働いていることを知ることはその作用を見れば容易に解る。旗や、吹き流しを見れば、目に見えない風の力を測ることが出来る。また昨年、今年と列島を襲った風害を見ても解る通り、風は目に見えないがその力は強大である。霊的な誕生もそれに似ていて、それ自体は目に見えるものではないが、それが働く結果としての我々クリスチャンの人生を見るならば、確かにこの世のものとは異なる「何か」その人の人生に働いているのを見ることが出来るのである。それは私たちが自分の生まれた日を知らないが、生まれたことを知っているのにも似ている。

 

四、イエスを信じることと不可分な体験

 

これらイエスの言うことをニコデモは理解できなかった。そこでイエスはなお語り続けるのだが、それは聖霊についてというよりも寧ろイエスご自身についてのことであった。イエスは自らが天から下ってきた存在である事、またモーセが荒野で蛇を上げたように、自らも上げられるということを説いた。「モーセが荒野で蛇を上げた」というのはその昔、神の民イスラエルが、神とモーセに反逆し、神が与えた天来の食物であるマナをなんと「みじめな食物」と言い捨てた時、神の逆鱗に触れ、多くの人が蛇にかまれて絶命したという記事に由来する(参:民二一・四~九)。神の怒りと裁き、蛇にかまれて絶命する仲間達を見た人々は自らの罪を悟り、モーセに懇願する。その民のために神がモーセに用意させたのは青銅製の蛇であった。モーセはそれを旗竿の上に付け、蛇にかまれた者に対して「蛇を仰ぎ見れば生きる」と言い、実際にそれを見た者は生きのびたのである。良く考えれば蛇にかまれた者が青銅の蛇を見て生きのびるというのはおかしな話だ。だがその言葉を信じ、実際に青銅の蛇を仰いだものは生きたのである。同じように後に十字架の上に上げられた自らを信じて仰ぎ見る者は上から、新しく、聖霊によって、永遠のいのちに生かされると語られた。そしてそのことはこの対話の数年後、ゴルゴダの丘で実現したのである。つまり御霊によって生まれるためにすべきことは、私たちの罪のために死なれ、十字架につけられた主を仰ぎ見れば救われるという福音の告知を受け入れ、主を見上げることなのである。

 

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我々はペンテコステ派であり、第二の恵みである「聖霊のバプテスマ」を大切にしているグループである。確かにそれは素晴らしい。しかし「御霊によって生きる」今日この日の前提に「御霊によって生まれた」ことがあるのを忘れてはいけない。聖書の語る御霊によって生まれる体験とは、私たちの罪を赦すために十字架に高く挙げられたイエスを見上げるときにはじまる神の天来のいのちである聖霊による、この世のいのちとは別次元の生であり、肉の目には見えないが、その影響は確かにその人の人生の中に表されていく、そのようなものである。そう考えれば、これはまさに神の恵みの奇跡としか言いようのないものである。思い起こしてみようではないか。救われてから今日この日に至るまでの私たちの歩みを。そこにあるのは目には見えないが、私たちの思いをはるかに超えて働く神の偉大な風、清める水、生かす水である聖霊の働きだ。今賛美と祈りの中でその流れに浸り、聖霊の満たしを頂こうではないか。

 

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第二礼拝では、内川主任牧師より聖書のメッセージが語られています。