明石聖会Ⅱ  御霊によって生きる ~その具体的実践~       ガラテヤ人への手紙 6:1〜10 大坂太郎師

 

「なぜ大学のポスターは『世界に羽ばたき』『未来を拓く』ばかりなのか」という記事を興味深く読んだ。そこには「たしかにそうではあるのだが空気のようになってしまったスローガン」が出来あがる理由には、集合知によって無難なものとされた結果だったり、そもそも広告の効果をあまり考えていないからだという分析がされていた。成る程である。またそうした言葉の「空気化」に抗うための方策として「決まり文句を裂け、できるだけ具体的に書く」「圧縮して言い切る」などの提案がされていた。確かに「当店ではくつろぎの空間でこだわりのなべ料理をおもてなしの心で提供しています」はいかにもという感じがぬぐえないが、「お座敷に掘りごたつで完全個室。名物のイワシのつみれが自慢のちゃんこ鍋で心の芯まで温まれます」だとパブロフの犬よろしくよだれも出てきそうだ。

閑話休題。このことを考えながら、この午後の聖書個所を読むと、使徒パウロの偉大さがよくわかる。というのも彼は御霊によって生きて(生かされている)いるガラテヤ教会に対し、単なるスローガンを連呼するにとどまらず、御霊による生き方、その具体的な生活をこれ以上ないくらい明確・明瞭に書いているからだ。この午後は御霊によって生きる、生活していく上での私たちの具体的実践について三つ学びたい。

 

Ⅰ.自分を常にチェックする

 

 一節には教会の中にあやまちを犯した兄姉がいた場合、その人に対して取り扱うことを教えている箇所であるが、興味深いことにパウロはここで注意を与える側にも「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」とか「おのおの自分の行いをよく調べなさい」などの注意を与えていることである。私たちは人のことを取り扱おうとする場合よく自分のことは「棚に上げて」上から目線の批判を展開しがちである。だがそうした注意は概して伝わらないもの。それを知ってか、パウロはまず注意する側に自己吟味を要求している。ここで大切なのはこの自己吟味はイエス・キリストとの関りの中でなされるべきだということである。私たちが主の前に正しく出るなら、私たちはそこで「誇れない自分」「大したことのない自分」「聖霊に助けられてナンボの自分」を発見する。その悟りがあれば、相手に対して真実かつ有効な勧告が可能になるのだ。「人に一本指差せば、残り三本は自分に向かっている」という事実を覚え、常に主にあって自らをチェックするものでありたい。

 

Ⅱ.兄弟姉妹の間違いはやさしく正す

 

 では間違いを犯した人に対してはどうするべきか。簡単である。パウロはそれを正すことを求めている。教会は間違いを間違いのままにしておく無限抱擁的な団体では決してないのだ。寧ろあるべき正しい方向へ間違った人を導いてあげることこそが真の愛であり、求められる徳である。ちなみにこの「正す」ということばには修理するという意味もある。壊れたものには修理が必要だということである。だがその行為はあくまで「やさしく」なされねばならない。人間はモノではないからだ。面白いのは日本語の主な聖書では優しい心と訳されている語句は直訳では「柔和な霊」となることだ。つまりこの柔和な霊とは生来の性質によるものではなく、聖霊の働きであることが暗示されている。よって人に有効な指導と矯正をするときには常に聖霊の助けを頂きながらそれをすることが求められているといえよう。聖霊により頼み、真実に相手の罪を指摘すると、そのときは辛い思いをさせるかもしれないが、もし彼や彼女がその間違いや悪から立ち返るならば、結局はその人のためになる。必要なのはゴシップをばらまくことではなく、間違いを正すための憲徳的な対話を続けることである。

 

Ⅲ.牧師とは支えあう

 

六節には「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい」とあるが、この言葉からイエスが昇天して二十年ほどの間に教会には福音を語ることを専業で行う、現在で言う牧師のような存在があったことが垣間見える。パウロ自身は開拓伝道者であり、自らは自活伝道をしていたこともあったが、一旦教会が形成されれば伝道者はその業によって生活を立てていくべきであるという原則を一貫してもっていた(参考:一コリ九・一一、一四他)。その根拠となるのは「相互に仕えあう」という関係性にある。牧師はみことばを教え、信徒に霊的な祝福を与えるのであるから、その聖なる働きに対して信徒が感謝をしてその生活を支えることはまさに二節にある「互いの重荷を負いあうこと」の具体的実践となる。もし「人は一人では生きていけない」「人と言う字は人と人とが支え合って」などと嘯きながら、「先生のことは先生でやってください。」とか「先生を召したのは神様でしょう、神様に責任を取ってもらったらいかが」と言って、自分たちだけがよければとなれば、それは肉に蒔くことであり、その終局は滅びであるとパウロは警告しているのである。しかし反対に牧師は信徒に、信徒は牧師にという具合に互が愛と善意をもってそれをしていくならばその時キリストの律法は聖霊によって成就するのである。

 

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このセクションを閉じるにあたりパウロは教会外は勿論のこと、特に教会の中で善を行うことを勧めているのだが、これを何かしらの「功徳」と考えるのは間違いである。むしろ聖霊によって新しく生まれたものが、聖霊の絶えざる支配を求めて生きていくならば、こうした律法を超える種々の良い行動に導かれていくと考えるべきである。桃でもみかんでも何でもいい。実のなる木のことを考えてみよう。うなって、いきんでいきなり実をならせる木がどこにあるだろう。木は大地に根ざし、養分を吸い上げ、自然に結実する。御霊の実も同じだ。私たちが常に神のみ霊に根ざし、この明石キリスト教会でその供給を受け続け、その聖霊の働きによって真摯な自己点検と、柔和な指導が、支え合う生活が実現するなら、そこにあるものこそ御霊によって生きることである。友よ、「御霊に満たされる」ことや、「ペンテコステ信仰」といったことばを空文化、呪文化させるべきでは決してない。そのためにはいつも聖霊充満を求めて祈り、自らをチェックするとともに、兄弟姉妹の間違いはやさしく正し、更に牧師とは支え合う関係をさらに育てていく「実践」が何より大切である。信仰即行動、信仰即実践となるために、その起点となる聖霊の満たしを今求めて祈ろうではないか。

 

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